私は京都市立芸術大学の卒業生であり、母親も京都市立芸術大学を卒業しております。私と母という世代の隔たりを経てもやはり京芸という略称は京都市立芸術大学を示す言葉として機能しております。実際web検索で上位に引っかかる大学説明やwikiにも「京都市立芸術大学の略称は京芸」と明記されていますので、これから受験のためなどに大学名を検索される方にとって非常にわかりにくくなるものと思います。 ――名称変更賛成投稿に散見される「京芸という略を自分の周りで聞かない」という意見について、ならば逆に私の周りでは京芸という略称しか耳に入ってきません。ので主観を元にすればこれでトントンということにならないでしょうか。私には市芸という呼称こそ「京都造形芸術大学」という範囲での交流の中で話がややこしくならないように生まれた呼称なのではないでしょうかと思えるのですが―― そして今回話題に上っている「京都芸術大学」というわずか6文字の名称を略するにあたり、「京芸」以外の略しかたがあるのか私には甚だ疑問であります。発案者様もそう思ったからこそ「瓜芸」という大学名と直接関係のない名称を用いるに至ったのだと思いますし。しかし略称というものは正式名の省略という意味であったと思いますし、全く関係ない名称を略称として用いるというのは、よく似た名前の大学が近隣に存在することよりさらに稀有なことであり定着するのかは甚だ疑問であると私は思うのです。ならば他の選択肢を…としても、京芸という略称を京都市立芸術大学のものよりさらに浸透させそちらのものとするか、略称なしという非常に在校生や外部の人間に不親切な状態を良しとするか程度であると思います。どの選択肢も果たして大学経営に何か貢献するのか、名称変更にかかる様々な諸経費を還元できる効果があるのか、私には疑問であります。 私はこの名称変更で京都市立芸術大学の過去の実績を掠め取られるという主張も見受けられますがそちらには私は賛成しません。事実は事実、大学名が変わったからといってお互いの大学の卒業生がそっくり入れ替わるなどといったことが起こるわけがありません。 つまりこの大学名称変更で京都造形芸術大学が得られるものは「外部から見た際のややこしさ」というただその一点だけだと思います。名称変更に込められたコンセプトや意思がその混乱をおしてあまりあるものであればぜひ突き進めばよろしいと思いますが、その場合はコンセプトがそれとわかるような舞台立てを、講義でおっしゃられるように広く行っていただきたいと思います。少なくとも市長や京都市立芸術大学の関係者、ましてや当事者も当事者である京都造形芸術大学の在校生にそのコンセプトが寝耳に水であるという状態は全くもってアートとして、共同体として、社会に与する存在として詰めが甘いのではないかと思います。
その他/京都市立芸術大学デザイン科卒業生
Comments