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074_反対

反対の皆さんの御意見には、いずれも「もっともだ」と感じ賛同する。学術的な視点や法的な見解は皆さんの論理的な分析と考察にお任せし、過日、造形大生にお会いし感じたことから始める。

京都造形芸術大学で教鞭を執っている大学時代の先輩に会う為、「瓜生山祭」期間中に当地を訪ね、大学の施設や学生達の展示を案内してもらった。すれ違う学生達が先輩に笑顔できちんと挨拶し、明るくフランクに話しかけてくる様子を見ていると、学生達の人としての魅力が伝わってきた。

造形大の学長のコメントの中に「市立大学は、恐ろしく狭い了見で芸術を見ていて、それに偉いプライドを持っている」という趣旨のコメントを見た。その言葉は、そっくりお返ししたい。芸術大学を名乗れる様になったのなら名乗れば良いが、「混乱することで様々な方面で社会的な不利益や不都合が起こるから別の名称にして欲しい…」というシンプルな言葉が通じない。「瓜生山芸術大学」でも「尾池芸術大学」でも何でも良い。032の方が提案されている「国際芸大」「総合芸大」「先端芸大」も良いアイデアだと思う。高い志のグランド〜を実現する為に改名するなら、オリジナリティーの高いタイトルこそ相応しいと思う。或いは、改名せずに従来の枠を超えた「造形」の新しい可能性と意義を次の30年で掘り下げても良い。

略称には「京芸」や「京都芸大」は使わないと言ってしまったことで、混乱が予想されることを自ら認めてしまったにもかかわらず、現場の学生や教職員、受験生やその家族、OB達の当惑に想いを馳せることなく、「似た名前の大学は他にもある…」と後向きに全力疾走する様な視点…恐ろしく狭く打算的とも取れる了見で名称に固執しているのはどちらだろう?…そう思わずにいられない。中身で勝負すれば良い。京都造形には、礼儀正しく、アウトプットのクオリティも高く、現場の先生方の頑張りが伝わってくるほどに、元気で素晴らしい学生達が沢山いる。

今の時代、「商標を抑えていないなんて、認識が低く甘い」と断じられても仕方が無いのかもしれないが、法的な正当性を問う以前に、そもそも日本人の精神文化の根底に流れていたもの…先祖から受け継がれてきた美意識…敏感な道徳意識に基づいて、内省的に自らの行動を律してきた立派な「罪」「科(とが)」の意識…戒律(法)や契約だけでは縛れない、恥を知る文化を日本人は持っていた筈だ…災害が起きても、暴動や略奪が起こらず、愚直に列に並び、共に生きることが出来る民族だった筈だ。「法的には問題が無いから」は、禁句だ。

子供の頃、道義に反する振舞いに対しては「恥を知れ」と父親によく怒られた。「想像力の欠如」だと怒られた。「恥を知る」という言葉は、自分を律する強さと他者に対する想像力を共有している者にしか通じ無い。「ならぬものはならぬ」のだ。

美大生・芸大生が学ぶ「イメージする力」は、決して芸術的表現の為だけでは無い。大学は…社会に出て、「独自性」を発揮しながらも、共に生きていくのに必要な資質を身に付ける場所なんだ。

「私立芸大は大人として、後輩(造形大学)をいじめるなと言いたい」という造形大学長のコメント記事も見たが、「自分達は子供なので我が儘を聞いて欲しい」としか聞こえない。今回の騒動を「いじめ」と捉える甘えの感覚に呆れ、ひいては造形大で学ぶ学生達を貶めていることに気付いて欲しい。 

社会の感覚とずれていることが自覚できず、耳を貸そうとしないリーダーの元でグランド〜が正しく成就するとは、もはや思えない。

せっかく素晴らしい学生達が育っている教育の現場なら、令和の時代を作って行く若い世代…自分達の社会が広がり始め、様々なことに思い悩み考え始める学生達に、ちゃんと正義を見せてあげて欲しい。 

京都造形大で学ぶ学生達の頑張りや名誉を毀損することはやめて頂きたい。


その他、京都市立芸術大学卒業

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