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031_その他

芸術の世界で生きる皆さんへ。これは「大学 VS 大学」問題ではありません。メディアがどれだけ煽ろうと。これは「芸術を商う手法の暴走 VS 知的財産の危機」問題です。もう少し突っ込んで言うと、「法すれすれで侵害してでも商いのために知的財産を得ようとする者」と、「知的財産で生きる道を守るためにも、その侵害を阻止しようとする者」の対立の問題なのです。 このことについて詳しく言う前に、ひとつ、お話しします。私自身は、40年近く、ブランドビジネスを商う世界で、デザイナーとして生きて来ました。そして私の配偶者は、およそ40年間、芸能界で生きて来ました。 芸術も、芸能も、無形文化財です。すなわち「知的財産」です。無形文化財とは、何でしょうか。私たちは作品という形を世に残すことはできますが、それを「産みだす能力」すなわち「才能」は、私たち個々の死によって失われます。つまり、無形文化財の「無形」とは、私たちの「才能」のことです。 自身の「無形文化財」の技能を極め、いわゆる人間国宝になる人もいれば、その技能が産み出す「有形の品」つまり「作品」を商って生きる人もいます。あるいは企業の中で自身の「無形文化財」を活かして食べていく人もいます。 どのような生き方を選ぼうと、もしも「産みだす能力」を奪われれば、たとえ命が長らえたとしても、私たちは死んだも同然になります。 どうかこのことを、深く心に刻んでいただきたいと思います。 私の配偶者は、40年間、芸能界で生きて来た、と言いましたよね。芸能界には、芸術の世界と重なる点も、異なる点もあります。いちばん大きく違いを感じるのは「無形文化財」を商うシステムがたいへん発達していて、しかもとても強大だということです。 「無形文化財」=「産みだす能力」を持つ者が、自分自身でそれをうまく商うことができなければ、それを活かしてうまく商える者に運用を託して生きることになります。画家がギャラリーに絵を売ってもらう、デザイナーが企業に所属してサラリーを貰う、音楽家がスポンサーの援助を受ける。時にはそれを仲立ちする能力に長けた人の助けを借りることもあるでしょう。芸能界では、その「仲立ち」をするシステムが非常に強大化しています。〇〇〇〇〇事務所、〇〇〇48グループのようなシステム。ハリウッドだって、システムです。 そのシステムの中で才能をコントロールしてビジネスに活かすこと=プロデュースとマネジメントです。プロデュースやマネジメントのチカラもまた「無形文化財」なのですが、システムに帰属すること、あるいはひとつの「成功パターン」をシステム化することによって、継続が可能になります。システム化に成功すれば、「一代限り」ではなくなり、持続が可能になるのです。 それ自体は、素晴らしいことです。システムによって、アーティストは余計なことに時間を奪われずに、才能を磨き、活かすことに集中できます。自分で自分の芸の才能をお金に変えるという才能に恵まれない人にとっては、それを補うシステムが構築されているということは、素晴らしいことなのです。 ただし、それが「素晴らしいこと」であり続けるためには、ひとつ条件があります。それはそのシステムが「他者の才能を奪ったり封じたりしないこと」です。なぜ、それが条件なのか、考えてみてください。 「他者の才能を奪ったり封じたり」するのが「悪いことだから」?いいえ。 複数のシステムの争いが激化し、「他者の才能を奪ったり封じたり」が暴走した結果、他のシステムや、システムに属さない「個」を駆逐してしまったなら、何が起きるでしょうか。 「産み出すものが、つまらなくなってしまう」のです。 自分の才能で生きている、自分の才能で生きようとする皆さん、「産み出すものが、つまらくなる」ということが、無形文化財によって生きる私たちにとって、どれほどの痛手であるかは、説明しなくてもお解りでしょう。 ビジネスは市場の奪い合いですから、どうしても、縄張りを作り、顧客の囲い込みをしようとします。また、それをしなければ成功できないとも言えます。しかし、それがあまりに強大化し過ぎて、他を一掃するほど暴走すると、切磋琢磨という市場原理が働かなくなります。 「個々の才能がそれぞれに力を発揮し、煌めくからこそ面白い」というバランスが崩れ、面白さが絶滅してしまうのです。 システム側で搾取していた者だけが勝ち逃げし、才能の保有者たちが生きる術を失う。そして、ある限られた、強大なシステムと、そのシステムが持つ成功パターンに乗った者たちだけの世界になる。けれども多様性を排除した成功パターンなど、どこまでいっても所詮は「ワンパターンの繰り返し」です。成功したシステムに熱狂する人だけが面白く、それを好きでない人にはまったく面白くなくなる。 市場原理が働かなくなった世界は、死にます。つまり「つまらなくなる」のです。 はっきり言います。それが、今の日本の芸能界の姿です。異論はあるかもしれません。しかし、これは、芸能界に長く生きている、私の配偶者の、切なる実感です。 さて、とても回り道をしましたが、話を主題に戻します。 広い意味での芸術(デザイン、工芸、美術、音楽などの垣根を取っ払って)は、無形文化財であり、すなわち知的財産であると言いましたね。 商売の才能を持つ人は、自分自身は産み出せない、他の誰かが産み出した知的財産をうまく売ることができます。産み出す者が売る者との連携を好調に続けられれば、そこに「Win-Win」の関係が成り立ちます。 しかし、すでにつまらなくなってしまった芸能界と同じことが起きないようにするためには、「他者の才能を奪ったり封じたり」しないこと、他のシステムや、システムに属さない「個」を駆逐しないこと、そして何よりも自分が「フェイクにならないこと」が大事です。 ちょっと、解りにくかったかもしれません。 私が長年関わってきたブランドビジネスの話をしましょう。 私は100年以上続くブランドでデザイナーをやっていますが、ブランドというのは、つくづく「約束」なのだと実感しています。よく、「ブランドとは、牛の焼き印だ。その昔、良い牛の所有者が他と区別するために自分の牛に焼き印を入れたことに始まる」と言われますが、その本質を考えてみてください。「他の牛と区別する」ということはつまり「自分の焼き印を入れた牛は、良い牛だよ」と、人々に「約束」することなのです。そしてその「約束」を必ず守ることなのです。それが「信用」というものなのです。 「悪い牛」を「良い牛」に見せかけるために「良い牛」の焼き印にそっくりの焼き印を押す人が現れたら、やがて「良い牛」も「悪い牛」も共倒れになってしまいます。でも、これは今回の件ではありません。 「良い牛A」とは別の「良い牛Z」がいるとしましょう。「Z」の所有者に、「こんなに良い牛なら、Aの焼き印に似た焼き印をつけると高く売れるよ」と言って、「A’」の焼き印を売ります。やがて「A’」の焼き印を見て「A」だと思い込んで買った人が、「こないだ買った牛はとても良かったよ」と「A」の所有者に言います。それで実はその牛が「A」ではなく「Z」であることがばれます。すると、「Z」は確かに「A」と同じぐらい良い牛であるにもかかわらず、「あれはAの偽物だ」と言われてしまうのです。私はブランドビジネスをやっているからよく解るのですが、この時、「Z」の評価はなぜか下がってしまいます。重ねて言いますが「Z」は良い牛であるにもかかわらず、です。評価が下がる理由は、「他人と他人が結んだ約束を自分との約束と誤解させるようにした」という、多くの人には理解しがたい行為の「怪しさ」が生み出す、信用の下落です。「怪しさ」は「疑わしさ」であり、「約束」とは対極のものです。 「良い牛Z」を「Z」として売り出せば、「A」ほどには売れないでしょう。しかし「Z」としての「約束」を積み重ねて行けば、必ずその「約束」はブランド化するのに対し、もしも「A’」として売り出してしまえば最初のうちこそ「A」と同等の売上は得られても、「怪しさ」がばれた時点で「約束が信頼できない偽物」としての評価が確定してしまいます。 そうなった時、得をするのは、「A’」の焼き印を売った者だけです。「A」の所有者も「Z」の所有者も、被害を受けます。 京都造形芸術大学は、無形文化財の売り方を教育者自らが打ち出し、伝統に縛られない指導をするなど、良いところをたくさん持つ大学です。 つまり「京都造形芸術大学」「京都造形」あるいは「京造」は、30年かけて「クリエイターの育成に新しい風を吹き込む大学」としての「約束=ブランド=信用」を、すでに世界と取り交わしているのです。 しかし、今、せっかく獲得して来た「約束=ブランド=信用」を一旦消して、「京都」ブランドと、「芸術大学」(京都に限らず東京藝大も含む)ブランドの「イメージ」を同時に併せ持つ名称である「京都芸術大学」という焼き印が押されようとしています。 「京都」ブランドが世界と取り交わしているのは、「京都らしさ」の「約束=ブランド」です。「芸術大学」ブランドが世界と取り交わしているのは、「歴史、難度の高さ」の「約束=ブランド」です。 商いのセンスのある経営者が「京都芸術大学」という名称を使おうとする意図は、「京都らしさ」「歴史、難度の高さ」という価値によって、自分に委ねられた才能を高く売るシステムを確立しようとしているからにほかなりません。 けれども、この「京都芸術大学」という名称は「京都市立芸術大学」ブランドの「A’」、すなわち「ニセモノ」になってしまいます。せっかく30年かけて得た「クリエイターの育成に新しい風を吹き込む大学」としての「本物の魅力」を否定して新たな焼き印を押しても、得られるブランド力は「京都」ブランドでも「芸術大学」ブランドでもなく、「京都市立芸術大学」ブランドのニセモノでしかありません。なぜなら、「歴史、難度の高さ」については、嘘になるからです。さらに、「京都らしさ」に関しても、「京都市立」が別に存在している以上、「京都市が正式に認めているのは別大学」という紛れもない事実があるため、「らしさ」を語れば語るほど、そこに「あれはニセモノだ」と言わしめる絶対的な根拠を作ってしまうのです。 この案が強行された場合、商人としての経営者は、一時、利益を得るかもしれません。しかし、教師、在校生、卒業生全員に対して「いつかニセモノと言われてしまうかもしれない」不利益を科すことになります。たとえそれがどれほど「良い牛」であっても。 さて、この「牛」ブランドの話は、経営者と学生の関係に限るものとしてお話しました。 長くなりますが、大事なことですので、もう少しだけおつきあいください。 冒頭に、私は『この問題は「芸術を商う手法の暴走 VS 知的財産の危機」問題』と言いました。『「法すれすれで侵害してでも商いのために知的財産を得ようとする者」と、「知的財産で生きる道を守るためにも、その侵害を阻止しようとする者」の対立の問題』だとも。 とてもとても重要なことです。 もう一度、つまらなくなってしまった芸能界のことを思い出してください。 日本の芸能界では、タレントは何らかのシステムに囲い込まれています。システムの運営者はタレントの才能をすべて掌握して、それを使って利益を得ます。そしてタレントにその分け前を与えます。システムに逆らった者は、「干され」ます。その例については挙げるまでもないでしょう。つまり、日本の芸能界では、マネジメントする側が、より優位に立っているのです。それは日本の芸能界がもともとそのような構図のもとに成り立って来たからです。 芸術の世界も、そうなっていいのですか? もちろん、優れたマネージャーは才能ある人の助けになるでしょう。自分ではできない営業や、ギャラの交渉を自分に代わってやってくれる人、自分の生き方にアドバイスをくれる人の存在は貴重です。大学によっては、そういうことを教えない大学もありますし、積極的にそれに関与してくれる大学もあります。けれども、アーティストとマネージャー、プロデューサーは、囲うものと隷属するものの関係になってはいけないと、私は思います。 マネジメントの手法やマーケティングの手法はとても大切ですし、優れた手法を否定するわけではありません。しかし、私たち「無形文化財」の才能で生きようとするものは、知的財産の価値にもっと気を配り、その侵害がどのような損害を生み出すのか、そこで逃げ得になるのは誰で、ほんとうに被害をこうむるのは誰なのか、一度は真剣に考えるべきです。優れたマネジメントを行える人と手を携えることは、芸術家にとっては喜ばしいことです。でもそれは「Win-Win」の関係でなければなりません。囲い、囲われる関係になってはならないのです。そのためには、他人の知的財産を侵害しないこと。そして自分の知的財産を侵害させないことがとてもとても大切なのです。 たとえ「法の隙間」や「相手の甘さ」に気付いて「しめしめ、これは狙えるぞ」という好機を得、奪うことに成功したとしても、他人の知財を奪うことによって得る成功は、無形文化財保持者としての成功ではなく、商人としての成功です。 もちろん、生きて、豊かな生活を送り、幸せを得ることは、誰にでも求めることが許される権利です。「商いとして芸術を扱うのがいけないのか?」と問われれば、答えはノーです。けれども、そこに「他者の権利を侵害する」という行為にさえ鈍感になってしまう自分がいるのなら、勇気を持って後戻りすべきなのです。 芸術家すべてが他を駆逐してでもカネを狙う商人を目指してしまうと、芸術は非常につまらないものになってしまいます。それは、今生きる私たちだけでなく、これから生まれて来る才能に対しても、可能性を奪うことになるでしょう。 改めて、芸術に生きる皆さんへ。 学校を改革し、新しい風を吹き込むという意味の、耳触りの良い、壮麗な「うたい文句」の影に、「法の隙をついて他者のブランドをかぶって一気にイメージの底上げを狙い、それによって”早期の”経営利益を得よう」という商魂が隠されていないかどうかを、しっかりと見極めましょう。そして、ひとりひとりが「ニセモノと呼ばれるかもしれない不利益」をかぶる覚悟があるかどうか、そうした不利益を後進にかぶせてもかまわないのかどうかを、問いかけましょう。


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